有馬記念・ベスト10

 日本で最も高い売り上げと、最も高い注目度を誇る
 年末最後のドリームレース。
 最後にかける馬・陣営たちが織り成す競争は
 まさに競馬史を象徴する感動的なレースばかり。
 と、言うわけで今回もダービーに倣って特別にベスト10発表。
第10位
2005年 ハーツクライ(ルメール)
 古馬相手だろうが、無敗の三冠馬ディープインパクトが勝つ姿を
  確信していたファンは、単勝1.3倍の評価を与え
  一時の競馬ブームが収まっていたこの時期でいて
  中山史上二番目となる16万以上の観衆が大挙して押し寄せた。
  スタート直後、その年のジャパンCをレコードで
  僅差の2着に入った追い込み馬のハーツクライが
  突如先行策を取り、場内がザワついた。
  そのまま最後の直線を向くと、追い上げるディープの前に
  奇策をとったハーツクライが敢然と立ちはだかり
  遂に無敗の三冠馬に土をつけた。
  有馬記念のゴールイン直後、たとえどの馬が勝っても
  すし詰めのスタンドからは大歓声が上がるのが常だが、
  この時ばかりは、まだレースが始まる前の時のごとく
  あれだけ入った観客の大声援が封じられた。
  あのハイセイコーがダービーで負けた時も
  こんな感じだったのかと想像される、異様な雰囲気だった。
第9位
2006年 ディープインパクト(武豊)
 海外での無念、JCでの再起を経て辿り着いた引退戦。
  昨年、国内唯一の敗戦を喫したこの舞台で
  彼は最高の完成度を誇るレースをした。
  いつも通りの後方待機から
  3・4コーナーで一気に大外をひとまくり。
  丁度その位置に据えられていたテレビカメラは
  画面から飛び出さんばかりの勢いで駆け出す
  彼の猛スパートをおさえていた。
  たちまちのうちに直線入り口では先頭。
  もうその時点で彼を追いかけることができる馬はいなかった。
  最後は手綱を緩める余裕を見せながら
  見事なフィナーレを飾った。
  私が思うに、これがディープのベストレースではなかろうか。
第8位
2003年 シンボリクリスエス(ペリエ)
 天皇賞はレコードで圧勝したものの、
  JCでは道悪馬場に脚を取られ
  生涯の宿敵タップダンスシチーの
  9馬身差逃げ切り勝ちを許してしまった。
  この年の有馬で引退が決まっていたシンボリクリスエスは
  「目には目を」という言葉を知っていたらしい。
  若いザッツザプレンティが作り出した
  もの凄い縦長の展開から
  4コーナーで早くも先団を捕らえて、なお
  ペリエは最後までムチを叩き続け、
  クリスエスは勝ちを確信してもスピードを上げていった。
  ダイユウサクが長く保持していたレコードを
  遂に更新し、有馬記念最大着差の9馬身差。
  宿敵にきっちり借りを返して鮮やかにターフを去った彼が
  なぜ顕彰馬候補に挙がって来ないのか、
  私はいつも不思議に思っている。
第7位
1965年 シンザン(松本善)
 秋の天皇賞の直後、有馬記念の前で
  中山のオープンを使うことに反対した主戦の栗田騎手は
  酒を煽って調教騎乗を拒否。
  替わって松本騎手がテン乗りで大舞台の手綱を取った。
  ライバルのミハルカス騎乗の加賀武見騎手は
  シンザンに馬場の悪い内を走らせようと
  思い切って外に馬を回した。
  これへの対抗手段として松本騎手は
  シンザンをさらに大外、
  外ラチぎりぎり一杯にコースを取った。
  すると満員のスタンドから、前方の観客の頭に隠れて
  シンザンの姿が見えなくなってしまった…。
  再びゴール手前で姿を現した時、
  シンザンはもう既にミハルカスを差し切っていた。
  伝説に残る、史上初の5冠馬誕生の逸話である。
第6位
1999年 グラスワンダー(的場均)
 宝塚記念で、まさかの3馬身差という
  完敗を喫したスペシャルウィーク。
  秋の天皇賞は体調不安を囁かれながらのレコード勝ち。
  続くジャパンCも圧勝し、有馬記念での引退を発表。
  宿命のライバルとの決着の機は熟した。
  スペシャル武の作戦はなんと大胆にもシンガリ待機。
  グラスワンダーもその少し前の位置で折り合い
  堂々その策を受けんとしていた。
  下手をすれば前残りを許して
  共倒れになり兼ねない危ない賭けだったが
  武・的場、両騎手が考えていたことは全く同じで、
  どれだけ強い競馬をするか、ではなく
  どちらが勝つか。只、それだけだった。
  その状況通りに、最終的には3着テイエムオペラオーより
  わずかにクビ差だけ前で繰り広げられた、きわどいハナ差の争い。
  最後は首の上げ下げになった。
  確かに勢いはスペシャルウィークにあった。
  名手武豊がついついウイニングランをしてしまったのも
  仕方の無いことだった。
  だが写真判定の結果はグラスワンダー。
  スペシャルが頭を引いて、グラスが頭を出した、
  その、“一”瞬間がゴール線上だった。
  1000年代最後の、実にシビれる名勝負は
  たった4cmで運命を分けた。
第5位
1977年 テンポイント(鹿戸明)
 関東のトウショウボーイ、
  関西のテンポイントと呼ばれた宿命の2頭。
  ゲートが開いて、逃げ馬のスピリットスワップスが
  行くかと思いきや、なんとハナを争ったのはこの両雄だった。
  前項で述べた、1999年の有馬記念と対照的に
  こちらは先を争う形での一騎撃ち。
  もちろんリスクが大きいのは承知の上。
  始めはトウショウボーイが前に出て
  1コーナーではテンポイントが内を突く。
  それを嫌ってトウショウボーイが馬体を併せて
  外から覆い被さり、また内を通る。
  競輪のような激しい競り合いを続けながらも、そのまま終盤へ。
  最後の直線で、こちらも名馬・グリーングラスが
  したたかに漁夫の利を得んと迫ってきたが、
  壮絶な2頭の叩き合いに、遂に及ばず。
  結末は、テンポイントによる打倒ライバルの悲願達成で終えた。
  この後大きなドラマを迎える、彼の最後の輝きだった。
第4位
1993年 トウカイテイオー(田原)
 父シンボリルドルフの足跡を辿り、
  無敗で二冠を制したエリート時代は遠い昔。
  今や彼は、挫折と戦う傷だらけのヒーローだった。
  前走有馬記念で大敗を喫した後、夏に3度目の骨折が発覚。
  結局復帰戦まで、丸々一年を要した。
  しかもこの年のグランプリは、好メンバーが顔をそろえた。
  そんな中、菊花賞を圧勝したビワハヤヒデが早めに抜け出すと
  皆、無抵抗状態に陥ったが
  只一頭追いかけて来たのが、トウカイテイオーだった。
  坂を上ったところで、若い人気筆頭馬に並ぶと
  休み明けを微塵も感じさせない
  力強い走りで差し切りに成功。
  中(なか)一年でのGT制覇という
  前代未聞の快挙をやってのけた。
  一年前と同じ手綱を取った、さしもの名騎手田原成貴も
  溢れる涙を抑えることはできなかった。
第3位
2008年 ダイワスカーレット(安藤勝)
 1番人気を背負いつつ、長距離のGTで
  自らの影を踏ませずに逃げ勝つのは、並大抵のことではない。
  と言うか近年の中では、私の記憶では一頭も思いつかない。
  カブラヤオーあたりまで遡らないと、恐らく居ないのではないか。
  それを、この馬は牝馬ながらやってのけた。
  さすがに、産経大阪杯で一流牡馬達の追い上げを許さず、
  長期休み明けの天皇賞を、レコードペースで逃げながら
  ウオッカに差し返しを試みただけのことはある。

  スタートして悠然とハナを主張し
  道中は坦々と快速を飛ばす。
  メイショウサムソンやスクリーンヒーローらの
  並み居る牡馬GTホース達が、彼女を目標に勝負しに来たが
  これらを全く寄せ付けず、逆に彼らの脚を失わせた。
  先団につけた馬達は総崩れになり、
  後方位置を占めていた人気下位馬が
  最後に上がってくる、という
  先行策の競馬としては極めて強い内容。
  だが、後方勢が上位に浮上した時には
  既に安藤騎手の拳が手綱を離れ
  天に突き上げられていた。

  逃げ切りと言うよりは、逃げ離しと言うべきか。
  彼女には、37年ぶり牝馬による
  グランプリ制覇という肩書きが付けられた。
第2位
2000年 テイエムオペラオー(和田)
 初めて競馬場を訪れ、初めて馬券を買った筆者が見た
  世紀末クリスマスの国民的大一番は
  天皇賞を春秋、宝塚記念もジャパンCも勝ち
  今まで誰も成し得なかった、年間GT5勝という
  偉大な記録がかかっていた。
  元来、広い馬場を得意にするオペラオーにとって
  中山の狭いコースはやや不安が残る所だったが
  その悪い予感は当たってしまった。

  二週目の1コーナーで両側から鋏まれて位置取りが後退。
  もはや、彼は全馬からマークされる
  厳しい局面に立たされていたのだった。
  道中も全く外に出せず、3コーナーでは
  メイショウドトウやアドマイヤボスらに
  外から被せながら上がって行かれて、完全に突破口を塞がれ
  いざ直線を向いた時には、馬群の最後方に
  押し込まれるという、最悪の状況に陥ってしまった。
  この破滅的な状況を切り抜けたのは
  オペラオー自身だった。

  わずかな隙間に自分から頭を突っ込むと
  左に右に進路をとりながら
  最後の坂にもがく格下馬を華麗にさばいていき、
  坂を登りきったところで、遂に眼前が開けた。
  やっと抜けたところに、GT3回連続で二着に食い下がって来た
  メイショウドトウの4度目の追撃を受けたが、
  これをも振り切り、先頭ゴール。
  王道完全制覇を完成させたこのレースが
  最もオペラオーが強く見えた一戦だった。

  そして私はビギナーズラックをものにし、
  見事に卒○旅行の資金を得たのであった。
第1位
1990年 オグリキャップ(武豊)
  (ここで改めてレースの回顧・分析をしてしまうと
   ますます文章の取り留めがつかなくなってしまうので、
   最後のこの項では敢えて、そこは全てをよくご存知の
   競馬ファンの皆様の知識にお任せするとして、
   今回は、このレースに対する私の思いを書かせていただく。)

  この時筆者はまだ競馬もろくに知らない
  中坊だったようなのだが、
  テレビで見た中山競馬場での騒ぎぶりは覚えている。
  なんかニュースとかで名前を聞いたことのある
  「オグリキャップ」とかいうヒーロー馬が
  最後に勝って、みんな大喜びしていたという記憶だ。

  当然その時の私は、彼がどんな足跡をたどって
  この結末に行き着いたのか、
  それがどんなに凄いことなのか知る由も無かったが、
  いい歳をした、もの凄い人数の大人達が
  一斉にオグリコールをしている状況から、
  感動で一杯に満たされた空気感と、
  えも言われぬ説得力というものが
  はっきりと伝わってきた。

  時は流れて10年後、競馬を猛勉強していくうちに
  彼の偉大さがわかってきた。
  その頃は、まだ生でレースを見たことが無いにも関わらず
  馬にのめりこんで行く大きな要因として
  あの時に受けた気持ちが根底にあった。
  前項に述べたオペラオーの大記録を生で初めて見た、
  というのも大きいが、
  あの日の有馬記念の中継を見ていなかったら
  私は競馬をやっていなかったかもしれない。

  ただ、あまりにこの有馬記念のインパクトは強すぎて
  この“ベスト1”レースを超える感動を得るには
  2011年のドバイでのヴィクトワールピサ優勝まで待ったが、
  そこまで私を我慢させ続けてきたのも、
  オグリキャップという馬と
  このレースの持つ魅力によるものなのだろう。
番外
2010年 ヴィクトワールピサ(デムーロ)
 有馬記念の最小着差ということでは、
  これ以上縮まることは無いだろうと思った
  1999年のグラスワンダーの4cmをさらに上回った。
  猛烈に追い上げた現役最強牝馬
  ブエナビスタの2cm先で粘りきったのが
  その年の皐月賞馬ヴィクトワールピサだった。
  当時は、彼の中山適性が大一番で
  たまたま嵌(はま)ったのかな、と思っていたが
  次戦に選んだドバイワールドカップで
  彼は日本競馬史に、未来永劫刻まれる大快挙をやってのけた。
  結果的にこのグランプリは、
  大きな意味を持つドバイの前哨戦となった。


 
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