ダービーは最も歴史が古く、昔も最近も名レース揃い。
とてもじゃないが3レースには絞れません。
と、言うわけで今回は特別にベスト10+番外2レースを発表。
しかしそれでも泣く泣く圏外に切ったレースが10個くらいありました。 |
第10位
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2000年 アグネスフライト(河内) |
武豊が跨る皐月賞馬エアシャカールが、二冠に向けて意気揚々と先頭に立つ。
外からやってきたのは母・祖母にクラッシク勝ちがある良血馬、アグネスフライト。
その鞍上は豊の兄弟子、河内騎手だった。
馬体をぶつけながらの激しい追い比べ、
「河内の夢か、豊の意地か、どっちだぁーーー!」の実況と共に
2頭並んでゴールイン。
手を挙げたのは、GTでも滅多にガッツポーズをしない河内の方だった。
エアシャカールはこの後菊を制したため、
わずかハナ差で、三冠馬の称号を逃したことになる。 |
第9位
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1991年 アイネスフウジン(中野) |
競馬ブーム真っ只中、この日の府中は19万人を超える超満員となった。
皐月で不利を受け、中途半端な競馬になったアイネスフウジン。
今回はきれいなスタートを切ると、マイペースに持ち込む。
しかしこのペースが恐ろしく速く、勝ちタイムは2:25.3。
このダービーレコードは、コース改修まで破られることはなかった。
それでも最後は1馬身以上残す余裕があった。
ウイニングランの最中に沸き起こった「中野コール」の大合唱。
日本競馬に新しい時代がやって来た事を象徴していた。 |
第8位
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1983年 ミスターシービー(吉永正) |
多頭数のため、序盤はせめて10番手以内に居ないと
勝つことができないと言われた、「ダービーポジション」。
稀代の追い込み馬にとって、この言葉の存在は全く無意味であった。
相変わらずのスタートの下手さ…。
1コーナーまでは、「どうぞ皆さん、先に行ってください。」と
余裕綽々で言っているような雰囲気だった。
後方の内ラチ沿いでじっとしていたシービーは、
3コーナーで馬群を割りながら進出。
直線では、外から一気に馬場を切り裂くような常識破りの豪脚を披露。
ダービーの名格言をも、バッサリと斬り捨てた。
19年ぶりの三冠達成を、強く予感させる結末であった。 |
第7位
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1998年 スペシャルウィーク(武豊) |
日本を代表する騎手に成長した武豊。
数々のGTを制しながらも、日本競馬界最高の栄誉はまだ手にできずにいた。
皐月も、セイウンスカイ・キングヘイローのライバルに行く手をさえぎられ
3着と苦杯を舐めた。
だがダービーは、それまでの鬱憤を吹き飛ばす圧勝劇であった。
セイウンスカイに並びかけると
並ぶ間もなくあっという間に抜け出した。
幾多の修羅場を潜ってきた豊であっても、
先頭に立ってなお、夢中で馬を追い、
つい手が滑って、ムチを飛ばしてしまうほどの必死さだった。
だがステッキを落とした時、もうそれ以上の事をする必要はなかった。
5馬身差をつける、圧勝。
ダービー初制覇、豊の渾身のガッツポーズが印象的であった。 |
第6位
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2005年 ディープインパクト(武豊) |
皐月を出遅れながら圧勝した、
ディープインパクトの単勝オッズはなんと1.1倍。
2番人気のインティライミは19.5倍と言うのだから恐れ入る。
スタートは、やはりの出遅れ。
しかしそんな事は何の不利にもならない。
ファンも安心しきって、悲鳴が出るどころか、失笑さえ起こっていた。
スムーズに外に導かれると、直線では
只一頭広い大外を、我がもの顔で疾走する。
経済コースを利して、離れた内ラチ沿いを
インティライミが粘り込もうとするが、
ディープにはこれが見えていたのか、いなかったのか、
豊のムチに応えて、ぐんぐんぐんぐんその差を突き放していく。
観客の大声援に迎えられてのゴールインは、
後続を5馬身離し、約束通りの圧勝劇だった。
初めて東京競馬、そしてダービーを観戦した管理人にとっては
あまりに刺激が強いレースであった。 |
第5位
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1992年 ミホノブルボン(小島貞) |
皐月賞と同様、距離が不安視されたブルボン。
外枠15番も心配の種だった。
それを利用してか16番人気の伏兵、ゼッケン13番の馬も早めに出て、
ブルボンに抵抗を試みたが、ここは皐月賞馬が前に出た。
道中も2〜3馬身ほど、差をキープしながらの逃走。
残り400m、彼にとって未知の距離を残していたが
この時点で鞍上はまだ持ったまま。
まだ二番手にいた“13番”が
ステイヤー血統の誇りを胸に秘め、しつこく迫ろうとするが、
エンジンがかかったブルボンには全く歯が立たなかった。
4馬身差の完勝。距離不安という噂は一体なんだったのか。
ただ、この時単に“13番”と言われていた無名の馬は
菊の舞台で、ブルボンの距離の限界に追い付くことになるのだが。 |
第4位
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1941年 セントライト(小西) |
戦前に生まれた、日本初の三冠馬。
どの三冠馬も各々勝ち方は強烈だったが、
このセントライトも、その例には漏れていない。
もちろん現在と競争体系は違うので、単純比較はできないが
この馬は何と4連闘の強行軍でダービーに出走。
前走は、古馬相手で61キロを背負ったとはいえ
アタマ差の辛勝で、ダービーの人気は二番手であった。
馬場は道悪になったが、この馬にとってはむしろ歓迎材料。
4コーナーで先頭に立つと、
見る見る内に後続を引き離し、ダービー最大着差タイの
8馬身差をもって大楽勝。
小西騎手がゴール地点で思わず後ろを振り返ってしまうほどで、
「あんな楽なレースは無かった。」という感想を残している。 |
第3位
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2007年 ウオッカ(四位) |
1953年にオークスが春に移行して以来、
牡馬はダービー・牝馬はオークスという住み分けがはっきりしており、
牝馬がダービーを勝つことはない、という固定観念が競馬界にはあった。
ましてや2007年の桜花賞を敗れたウオッカが
こともあろうにダービーに挑戦するなどどいうことは
もはや春の椿事と言われても仕方がない様な大事件だった。
不安と期待が入り混じる3番人気の評価を受けたウオッカは
パドックでは、並み居る男どもの中でも
決して引けをとることは無かった。
皇太子殿下ご観覧の下、直線で只一頭抜け出してきたのは
間違いなくそのウオッカであった。
伝統の府中の直線で、牡馬達を置き去りにし
牝馬として64年ぶりにダービー制覇という歴史的勝利を収めた。
同時に5組目となる父子ダービー制覇も達成し、
父娘ダービー制覇という点では初の事例となった。 |
第2位
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1994年 ナリタブライアン(南井克) |
ビワハヤヒデの弟、皐月賞の圧勝振りで、
この馬の注目度は格段に上がっていた。
単勝オッズは1.2倍。デビュー当初に勝ち負けを繰り返していた
地力の弱さは、もう微塵も見られなかった。
直線で、誰にも邪魔されないように大外に持ち出されると、
後はただ突き放す一方。これにつけられる形容詞は「強い!」の一語のみ。
最終的に5馬身差をつけた。
説得力ある末脚は、このレースを見た者全てを魅了した。
7冠馬シンボリルドルフを管理した野平師も、
「現時点ではルドルフより上かな。」と、ブライアンの強さを認めた。 |
第1位
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1943年 クリフジ(前田) |
ウオッカのダービー制覇から、さかのぼる事64年前のこと。
まだ現在のスタンディングゲートではなく、
この時はバリアー式の簡素なスタート設備。
スターターの操作で、この仕切りが上げられた時、
牝馬のクリフジは完全に横を向いており、あわてて転回してからの発馬、
致命的な出遅れとなった。
一番人気馬の失態に場内は騒然となったが、
道中でそろそろと上がって行き
3コーナーではいつの間にか、もう先頭争い。
直線半ばから差をつけ始めると、前田騎手は後続の足音が聞こえなくなり
レースが中断したのかと不安になって、何度も後ろを振り返ったという。
戦時中のため多くの馬が駆り出され、レベルが低い年だったという説もあるが、
レコードを1.6秒も縮めた事実があり、この話の信憑性は高くない。
ダービーは6馬身差だったが、後のオークスは10馬身、
今の菊花賞にあたる京都農商省賞典は大差勝ち。
生涯成績は、未だにその上が無い11戦全勝。
大昔の話ではあるが、その強さに敬意を払って
ダービー第1位とさせていただく。 |
番外
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1973年 タケホープ(嶋田功) |
このレースは、タケホープが勝ったダービーというより、
ハイセイコーが負けたダービーといった方がわかりやすいだろう。
この時はハイセイコーブームの頂点。
4コーナーで直線に立ち、観客をやんやと沸かせたのだが
その直後、歓声は悲鳴に変わる。
直線半ばで後続に捕まり
彼が3着でゴールした時には、
ぎっしり人で埋め尽くされた東京競馬場は
しばらく静寂に包み込まれたという
近年、これと同様の現象が
2005年にディープインパクトが有馬記念で負けた時にも起こった。
目の前で信じられない事が起こると
人は口を開けたまま、黙ってしまうものらしい。 |
2009年 ロジユニヴァース(横山典) |
皐月賞で、1番人気ロジユニヴァースと
2番人気リーチザクラウンが共に大敗。
5倍程度だった二頭の馬連のオッズは、ダービーで37倍にまで上がっていた。
これを大チャンスと見た管理人は、この馬券を確保。
大雨で、勝ちタイムが戦前までに逆戻りするような
極悪馬場の中、皐月賞1・2番人気馬は早めに抜け出し踏ん張った。
逆襲のワンツーフィニッシュ。
ロジは、6例目の父子ダービー制覇を達成。
私は、念願のダービー予想的中に成功しました! |