第3位
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1992年 ライスシャワー(的場均) |
短距離血統を持ちながらも
新設された坂路調教コースで徹底的に鍛え上げられ、
皐月賞・日本ダービーを完勝したミホノブルボン。
前哨戦の京都新聞杯もレコードで制し、
もはや距離の不安を囁くことは、冷笑を誘う種でしかなかった。
スタート良く飛び出したブルボンだったが、
それを制して外から行ったのがキョウエイボーガン。
いつもと違い二番手からの競馬だったが、
直線では満を持して先頭に立った。
しかし最後の最後で血統の差が出てしまった。
外から交わしたのはリアルシャダイ産駆のライスシャワー。
気づけば、ダービー・京都新聞杯と共に2着を確保し
徐々にブルボンとの着差を縮めていたのだ。
淀がため息と悲鳴に包まれる中、
京都得意の的場騎手を背に1着入線。
関西、そして日本全国の競馬ファンに、憎き敵役として脳裏に深く刻まれた。 |
第2位
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1994年 ナリタブライアン(南井克) |
皐月賞はレコードで3.5馬身差、ダービーは5馬身差。
圧倒的な強さで二冠制覇をしながらも、
京都新聞杯で伏兵馬に足をとられてしまい
これで通算4敗目という危うさをも持ち合わせていた。
さらに、スティールキャストが大逃げを敢行したことにより
オールドファンには、その母プリティキャストが
3200m時代の東京天皇賞を逃げ切った大波乱劇が
ふっと記憶から蘇ってきて、背中に冷たいものを感じたかもしれない。
ところが、残り400mにてその逃亡者が捕まったところで、
京都競馬場の直線は一気にブライアンの物へと変わった。
ラスト200mで抜け出し先頭に立つと
そこから目の覚める勢いで後続を置き去りに。
大観衆が皆片手で新聞を突き上げて、
まるで白い花を振りかざしているような花道をまっすぐに突き進み
なんと2着馬に7馬身差も広げ、ゴールに飛び込んだ。
またもレコード、前年の兄ビワハヤヒデに続いての兄弟制覇。
だが、最も強い三冠馬誕生という偉業が、一番大きいものであろう。 |
第1位
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1973年 タケホープ(武邦) |
地方からやってきた大スター、ハイセイコー。
競馬ファンはおろか、日本全国一般人の人気を集め
ダービーに臨んだが、 3着に敗退。連勝は10でストップ。
秋復帰の京都新聞杯も惜しい2着に留まり
不安を残しながらの菊花賞になった。
しかしファンは彼の復活を信じ、この日も一番人気。
直線で勇躍、内を突いて先頭に只一頭踊り出た。
皐月賞以来の大レース制覇なるかと、一瞬胸躍らせたファンだったが、
しばらくして、外から上がってくる馬がもう一頭。
ダービーでハイセイコーを破った、憎きタケホープだった。
内外離れてはいたが、ハイセイコーも宿敵の姿は確実に視界に捉えたようで
相手が迫るたびに、確実に末足は伸びていた。
だが敵も去るもの、その差は徐々に詰まり、完全に一騎撃ちの様相に。
人気の皐月賞馬、実力のダービー馬、と言われた2頭は
ゴール線上で全く並んでの入線。
リプレイで観てもどちらが先に出ていたのか判別できないほどの僅差だったが、
軍配はダービー馬タケホープに上がった。
わずかに3cmだけの差で、
年度代表馬の栄誉はタケホープに与えられた。 |
番外
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1987年 サクラスターオー(東) |
この馬の一生はまさに波乱万丈であった。
出生後ほどなくして母が他界。
馴致より以前から人間の手によりミルクが与えられ、
曾々祖母スターロツチに見守られて成長していった。
やや足が曲がっている難点があったが、競馬センスは抜群で、
鞍上交代事件をものともせず弥生賞・皐月賞と完勝し、
一気に世代のトップ候補となった。
ところがその後軽繋帯炎を発症し、ダービーは出走不可に。
菊花賞の前哨戦までには戻れる予定が、
脚の回復は思わしくなく、再度腫れては引いての繰り返しだった。
復帰は、菊花賞最終追い切りの直前まで決まらない程
ギリギリの状態で、いくら皐月賞馬でもぶっつけでの3000mでは
9番人気までというのは仕方の無いことだった。
大本命のダービー馬、メリーナイスは折り合いに苦労する中、
4コーナーで5枠の黄色い帽子の馬3頭が抜け出してきた。
だがここで最終的に抜け出すのがサクラスターオーであることは
まだ誰も予感していなかった。
そして、ピンクの勝負服が画面に大写しになった時、
杉本アナの、「菊の季節にサクラが満開」
あのあまりに有名な名文句が世に放たれた。
奇跡の二冠馬誕生に競馬界は騒然となり、
そのファンの想いが強かったゆえに
スターオーは、当初、即休養するはずだった予定を変更して有馬記念に出た。
そしてそのドリームレースは彼の脚、すなわち命を奪うことになってしまう。 |