父ニジンスキー・母シルという超良血馬として生を受けた、マルゼンスキー。生まれたのは
北海道だったが、母のシルは、息子を孕んだまま来日した。馬主の橋本氏と本郷調教師が、
アメリカの競りで、シルの馬格や血統を気に入り30万ドル(約9000万円)で購入したのだ。こ
のことが、マルゼンスキーの運命を大きく左右することになる。
一般に持ち込み馬といわれる彼の種別は、現在は内国産と全く同じ扱いとなるが、マルゼ
ンスキーが当時は内国産保護政策が取られていた時期で、外国産馬と同扱い、つまりはクラ
シックに出走することが許されなかった。
初戦は大差、二戦目は9馬身差の圧勝。三戦目こそ府中3歳ステークスでヒシスピードに
ハナ差まで許したが、次の大一番朝日杯3歳Sはその相手を大差でブッちぎって見せた。明
け3歳(当時は4歳表記)で骨折に見舞われたが、回復後もその強さは全く鳴りを潜めること
は無かった。前述の通り、ダービーなどには出走できず、主戦の中野渡騎手が、「大外枠でも
いい。賞金もいらない。他の馬の邪魔をしないからダービーを走らせてくれ。」と吐いたことは、
あまりにも有名である。
日本短波賞では、菊花賞プレストウコウなどを相手に、途中でゴールを間違えて失速しなが
らも、再度7馬身突き放すという、離れ業をやってのけた。
有馬記念を目指して調整されたが、脚部不安が屈腱炎にかかり引退。全8レースで計61馬
身の差を以って無敗という記録を残した。
しかし種牡馬なるとダービー馬を出し、その無念を晴らした。心臓麻痺で倒れ、葬儀が行わ
れた際、橋本聖子がマルゼンスキーの棺に自身が取ったオリンピックでのメダルを入れたと
いうエピソードがある。 |